大判例

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広島高等裁判所松江支部 昭和25年(う)112号 判決 1950年11月29日

被告人

桶村照子

主文

本件控訴を棄却する。

理由

弁護人山崎季治の控訴趣意第一点について。

しかしながら原判決挙示の証拠を綜合すれば、原判決摘示の事実を認定するに充分であつて、原判決は弁護人の所論のような何等事実の誤認は存しない。原審が遠藤正博を訊問しなかつたからといつて、証拠の取捨選択を誤つたとか審理不尽の違法があるとかの非難は当らない。論旨は理由がない。

第二点(イ)について。

原審第二回公判調書中、証人勝部安子の供述記載によれば、同女と被告人とは顔見知りの程度に過ぎず、一度話したことがあるだけでさして懇意の間柄ではないことを認めることができる。そのような間柄に過ぎない同女に対し、被告人は共産党提唱にかかる米子市会リコール運動署名方を依頼したが、同女が拒絶したので判示のような言辞を弄したのであるから、決して弁護人所論のような冗談または単純な「いやがらせ」程度のものであるとか、または所論警察犯処罰令違反程度のものであるとかいいえない。なお他人を畏怖せしめる意思をもつて生命、身体、自由、名誉または財産に対し危害を加うべきことを通告した場合、その通告の内容が客観的に人を畏怖せしめるに足るものである以上、相手方がこれにより畏怖を感じたると否とを問わず、脅迫罪が成立するものであり、敍上のような間柄にある被告人が勝部安子に対して敍上のような経緯のもとに同女を畏怖せしめる意思をもつて判示のような言辞を弄した以上、これは客観的に人を畏怖せしめるに足るものであることは容易に肯認し得るところである。なるほど弁護人の指摘するように原審第二回公判調書中証人勝部安子の供述として「人が聞いて恐ろしいという感じは起らないと思つた」「桶村さんがいわれた位で恐れる人はないと思つた」との記載はあるけれども、これは単なる同証人の主観的な判断を述べたにとどまり何等右見解を左右するものではない。要するに弁護人は独自の論理を展開し、原判決を論難するものであつて所論は採用できない。

第二点(ロ)について。

所論は要するに理想的ないわゆる人民政府の形態を頭に描いてその前提のもとに議論を展開するものである。所論人民政府の成立する過程において、あるいはまた成立した暁においては、その現実の状態は必ずしも弁護人所論の通りにならないことは歴史上顕著な事実である。それは権力者に対する関係たると一私人に対する関係たるとを問わない。果してしからばその結果の発生が絶対的に不能であるから、本件は不能犯、宗教犯に類するとかあるいは単に吉凶禍福を説いたものに該るとかの議論は、その前提において既に誤つており採用の限りでない。論旨は理由がない。

第二点(ハ)について。

原審第二回公判調書中証人勝部安子の供述記載によれば、被告人が原判決摘示のようなことをいつた際被告人の態度は真面目な態度であつた。笑談ではないと思うとあり、右供述記載に原判決挙示の証拠を仔細に精査検討すれば、被告人の弄した言辞が弁護人所論のように単なる「言葉の綾であつた」とか「諧謔に出たものである」とかいつて看過し得ないことは明らかであり、また原判決摘示のような状況経緯のもとに原判決摘示のような言辞を弄したものである以上被告人に勝部安子を畏怖せしめる意思があつたことを肯認するに充分であるからこの点に関する弁護人の論旨もすべて理由がない。

(弁護人山崎季治の控訴趣意)

一、本件は事実誤認である。

公訴事実のいわゆる脅迫したとの言辞「覚えていらつしやい、貴女のような人は、人民政府が出来たら真先に絞首台に上げてやる」との認定事実は、被告人の否認するところであり、単に被害者と目せられる証人勝部安子の一方的証言のみである。かかる被害者と目せられる証人のみの証言をもつて犯罪事実を認定することは極めて危険である。他に第三者の証言をもつて認定する必要があると信ずるのであるが、その場に居合せた田口証人はさようなことを聞いた記憶がない旨陳述しており、さらにこれを積極に認定するためにはその場に居合せた遠藤正博なる者を訊問する必要があつたことは公正に判断して明瞭である。しかるに同人は病気の故をもつて出廷しなかつたのであるが、臨床訊問等の方法は存していたのである。弁護人としては、検察官が同人の証人訊問を抛棄した以上、当然無罪の御認定あるべきものと信じていたのである(以上述べた如く公正に見て積極に認定をなす証拠は存しないのであるから)従つて原審判決は事実誤認だと考える他はない。仮に一歩譲つても証拠の取捨選択を誤つており、審理不尽の判決と思料とする。

二、仮に原審認定の如き言辞があつたとしても脅迫罪を構成しない。

(イ)  被告人と被害者と目せられる勝部安子とは旧知の間柄である。この知り合いの女同志で多少のいい過ぎがあつたとしても、脅迫罪という如きものを構成すると考えることは甚だしく常識を逸脱した判断である。冗談または単純な「いやがらせ」程度のもので、既に廃止になつた警察犯処罰令第一條第四号強談威迫または第二條十六号「人を誑惑せしむべき流言浮説または虚報を為したる者」が同條第十七号等よりも程度の低いものである。これが脅迫罪とならないことは判例学説の一致するところである(大判五八巻七一六一頁)

従つて勝部安子も何等の畏怖をも感じなかつたのである。これは勝部が特別にまたは特異な性格から畏怖を感じなかつたのではない。同じ情況で通常人をこの場に置いても、畏怖を感じない客観情勢であつたことを物語るものである。知り合いの女同志その場の雰囲気からさような言辞で畏怖を通常人が感じない程度であるから、脅迫罪は構成せないのである。その言葉だけをその情況から切り離してこれを抽象して脅迫罪になるかならぬか等を考えることは無意味であつて、旧知の女同志の稍冗舌冗談を行過ぎた程度の情況下で判断するのが正当であることはいうまでもない「いやなことをいつた者は処罰する」という如き態度は封建殿様の切捨御免の体制と何等選ぶところがないのではなかろうか、いやな気持――何人も恐ろしいと感じる人はないと思つた、桶村さんがいつた程度で(証人勝部の証言)――当時の環境雰囲気から――恐ろしくなかつたがいやな気がした、これが証人勝部の証言である。

果してこれが脅迫罪を構成するであろうか消極に解するを正当と信ずる。

(ロ)  原審認定は「人民政府が出来たら云々」との言辞であるが、かかる條件または前提がある以上常識上脅迫罪を構成する余地がない。なるほど人民政府は出来る可能性は絶無ではない。歴史は中国、北鮮東欧諸国その他に人民民主主義政府の成立したことを立証している。しかしながらその諸国の歴史が立証している如く「政府」という形体が成立する以上殊に人類文明の一進展段階として成立するものである以上、私的のものでないことは明らかである。どこの人民政府と称せられるものを概観しても多少の未熟の程度はあつても確固たる政体の一つである限りにおいて司法制度、裁判検察の制度を採用している如くである(中華人民共和国の司法制度参照)従つて被告人の如き一私人が本件の如きことありとしてもどうして裁判を動かし得るであろうか、私人的社会制度ではなくいわば人民のための人民政府による政府を目標としているものであり、人民のための裁判制度を目標としているものであるであろう。あるいは一私人は訴えることは許されるであろうけれども裁判制度は――一つの制度として現代世界に成立する以上――一私人の好悪や私的な怨恨を採り上げる筈は存しないと信ぜられるのである。封建社会の如く支配者の恣意によらない制度が人民政府であろうと思う。

かかる見地より人民政府が出来たら真先に云々のごときことは全くの不能事であることは明らかであつて、学者のいわゆる不能犯、宗教犯――丑の刻参り――に類するものであると考える。かつての警察犯処罰令第二條第十七号「妄に吉凶禍福を説き」云々と類するものというべきであろう。換言すれば「人民政府が出来たら」ということと絞首台云々とは無縁の事柄であろう。

ただしここに附言したいことは、勝部安子が仮りに公権力を持つた者であると仮定してその公権力を持ついわゆる権力者が権力を濫用して被告人のごとき一市民に何等か不法な圧力を加えたような場合、一市民の側からその公権力濫用者に対し「人民政府が出来たら云々」といつたとしたら事情がいささか異なるかも知れない。それは公権力を濫用して市民に不当または不法な圧力を加えたごとき事案に対しては時に戦犯としてあるいは人民政府の裁判において処刑された事例ありたることを耳にしないではないからである。しかしこれはあくまで公権力者対一市民の関係において不当な圧迫を加えたごとき場合の問題であつて、本件のごとく一市民同志の言葉のやり取りに過ぎず、その間に公権力を双方とも有せざる立場における言行等の場合とは自ら本質を異にするものであることをいうのである。換言すれば一私人対一私人の本件のごとき場合と公権力者対一私人の場合とはいささか趣を異にするのではないかという点である。

(ハ)  本件は言葉の綾であつた「吉田内閣打倒」「共産党打倒」等々というのと類似するものである。池田蔵相の「中小商工業者の幾何かは餓死してもかまわない」といつたとかいわなかつたとかいうのも要は言葉の綾である。法的には心裡留保というかも知れない。その心裡留保(言葉の綾)として受け取られていることは勝部証人の証言で明らかである。「その通告が明白に戲謔に出て(本気で本件のごとき言辞を知り合いの女同志でいう筈がない)被害者をして畏怖心を生ぜしむるの意思なき場合は犯罪を構成せざるものとす)(大判七二巻九五〇六頁参照)との判例もあるのであるが本件は正に戯謔に出でたものに他ならないことは一件記録に照し、当時の雰囲気を想像して明らかと信ずる。勝部証人の証言中「遠藤正博さんも共産党はそんなことをいうからいけないのだ」といつたとの証言がある。これが真実とするならばそんなこととは「馬鹿気たこと、悪戯謔なこと、本気でないこと」というごとき意味と解すべきであろう。しかも畏怖する状態ならば左様なたしなめる言葉など出る筈なく誰が見ても戲謔であることを客観的に示しているものである。

誰が考えても本気で左様なことをいう筈はない。また誰も本気でそんなことを聞く筈はない(常識のある人なら)こと明白であろう。況んや被告人に畏怖せしめるの意思ありたることの何等の証拠なく却つて右記の如く畏怖せしめる意思のなかつたことを認めるのを相当とする本件は、何れの点より見るも事実誤認であつて無罪の判決を相当と思料するものである。

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